彼に抱きしめられるのが好きだった。
彼に名前を呼ばれるのが好きだった。
きっと、彼のすることなら何でも受け入れられるほどに。
彼が大好きだった。
月光
丸い月が夜空に浮かんでいた。
充は肌に優しく馴染む春の夜の暖かい空気の中、それを綺麗だと思った。
自分の隣りを歩く、彼の横顔と同じように。
「充。」
桐山の声がした。
新学期が始まってから、毎日のように桐山と一緒に下校して、時折繁華街に寄り道することもあった。
今日もそうで、桐山を色々な場所へ案内するうちに、すっかり日が暮れてしまった。
「何、ボス」
彼といるときの自分は、びっくりするほど優しい気持ちになっている。
笹川に「お前、ボスとできてんのかよ」などとちゃかされたこともあったが、
強く否定することができなかった。
「…できているとは、どういうことかな」
傍にいた桐山が笹川に不思議そうに尋ねるのを、慌てて止めた。
キスをして。時にはセックスまでして。
まるきり恋人同士がするのと同じことをしている。桐山と自分は。
…そういう関係も悪くないんじゃないか。
そう、悪くない。桐山の言葉を借りるならばきっとそんな。
桐山は足を止めた。
そして自分の前方を指差した。
その桐山が示した方に目をやると、充は眉をしかめた。
「…あ」
桐山は一言呟いた。
「…死んでいるな。」
薄暗い、月明かりと僅かな電灯に照らされたコンクリートの道路。
赤黒く汚れた子犬が仰向けに倒れていた。
桐山の言うとおり、既に絶命していることは明らかであった。
その顔に見覚えがあった。
数日前からこのあたりをうろつくようになった子犬で、とても人なつっこかった。
大方飼い主に捨てられたのだろう。どんな事情があるにしろ、その身勝手な振る舞いに、
充は憤りを覚えたものだった。とはいえ自分もまた、この子犬の面倒を見られるわけではなかったから、
小学生の子供がするそれのように、中途半端にかまったりはしなかったのだが。
…せめて一度くらい頭を撫でておいてやればよかった。
信頼しきったその態度に応えて。
「命というのは、簡単に壊れるものだな」
桐山は、子犬の死体から顔を上げた充に、抑揚のない声で言った。
その顔はいつも通りの無表情であったが、どこか哀しげな色を含んでいるように見えた。
時々だが、彼はこんなふうな顔を見せることがある。
そんな時の彼の目は、不思議と自分に向かって、何かを訴えかけてくるようだった。
その「何か」をわかろうとして、しかしやはり断念してしまっていたのだけれど。
彼がはっきりと自分の助けを必要としない限り、差し出がましく彼の内面に触れることは、許されない。
充は勝手にそう思っていた。
「埋めてやろうぜ」
充がそう言うと、桐山は静かに頷いた。
持っていたコンビニのビニール袋を手にはめて、充は子犬を抱き上げた。
公園の片隅、柔らかな黒土の中が、小さな子犬の寝床になった。
手を汚したのは充だけだったが、桐山はずっと充の傍について、その様子を見ていた。
充がしんみりとした気持ちに浸っていると、桐山が切り出した。
「いずれ壊れるものならば、何故生まれて来たんだろうな」
充ははっとして、桐山を見上げた。
びっくりするくらい冷たく、無機質な声だった。
「…ボス?」
「…俺は」
彼の視線は、子犬が埋まった土の盛り上がっている部分にじっと注がれていた。
憐れみも悲しみも、何一つ混ざらない、冷静な観察者の目だった。
「時々、何のために生きているのか、わからなくなるんだ」
充はずきん、と胸が痛むのを感じた。
「…充にはわかるか?」
今日の桐山は、少しおかしかった。
「…なんで、なんでそんなこと」
少し遅れて出した声は、自分でもびっくりするくらい震えていた。
桐山は、答えなかった。
「…お、俺は」
充が動揺しているのに気づいてだろう、桐山は僅かに眉を上げた。
充のほうを振り返った。
充は口ごもった。
考えたことがなかったから。自分が生きてる理由なんて。
自分は下らないやつだとは思うけれど。
そんなことを考えて行ったら、自分を否定することになりかねないから。
桐山は…今日、そんなことを考えていたのだろうか。
いや、今日に限らず、いつも。
「俺は、今でも自分が生きている価値を見出すことが出来ない」
桐山が続けて吐いた言葉は、それを裏付けるに十分だった。
充は息を飲んだ。
桐山が、初めて話したかもしれない、「本音」にどう応えていいかわからなくて。
暫し見詰め合っていた。
考えはまとまらなかった。
けれど充は、ここで桐山に答えを返さなければだめだと思った。
「…充?」
「と、とにかく」
唇を噛んでから、充は桐山をきっと見詰めて、言った。
「…俺なんかよりずっとボスの方がすげえ奴なんだから、生きてる価値がないだなんて、
そんなこと絶対にない!」
充の答えに、桐山は訝しげに首を捻った。
「何故だ」
「俺は…そう思うんだ」
充は泣きそうになっていた。
自分と一緒に居たのに、桐山は、そのことを何ともー少しも楽しいとは、思ってくれていなかったのだろうか。
「ボスが生まれてきてくれたから、俺ボスと会えて…毎日、すげえ幸せだって思えてるんだ。だから、
そんなこと言わないでくれよ」
ーそうだとしても。
「ボスが死んだら悲しいよ」
俺は、違うんだ。
「ボスが死ぬんだったら、俺が死んだ方がよっぽどましだよ!」
それくらい、ボスのことを大事に思ってるのに。
ざっ、と風が吹いた。
桐山の瞳が、ほんの少し動揺の色を見せたように思えた。
「あ…」
桐山の学生服の、胸元あたりを掴んでいたことに気がつき、充は顔を紅くした。
「…ごめん」
その手を離すと、桐山はオールバックのほつれを直すかの如く、左こめかみのあたりに自分の手を添えた。
「…いや」
桐山は、じっと充を見詰めながら、言った。
「…そういうものなんだな」
月明かりに照らされたその顔はやはり、人形のように無表情だった。
それがひどくもどかしく思えて、充はまた唇を噛んでから、首を垂れた。
…どうしたら、わかってもらえるんだろう。
ほんの少し気まずい空気の中帰路についた。
しかし別れ際、桐山にぎゅっと抱きしめられた。
「ボス」
「…こうしていると落ち着く」
戸惑う充に、桐山は穏やかな口調で言った。
「以前、そう言っていなかったかな。充」
桐山の学生服の胸が目の前にあった。
硬質な雰囲気に不似合いな、優しい香りがした。
充はその胸に、ぎゅっとしがみついた。
桐山の胸からは、あの子犬からは消えてしまった、鼓動が聞こえてきた。
「聞いてくれるかな。俺は、どっちでもいいと思っていたんだ」
充は震えていた。
桐山が、分校での発言同様、少しも冷静さを失わずにー強い絆で結ばれていたはずの、
笹川や黒長を殺し、無力な女子の金井を殺し、そして今まさに自分をも手にかけようとしていることが、
とても、恐ろしかった。
しかし同時に、ひどく悲しい感情がこみ上げた。
それが充の自衛本能を停止させ、ワルサーPPKに一度は向かった思考を途切れさせた。
桐山を自分は救うことが出来なかった。
だから切り捨てられた。
自分の命を奪われる恐怖より、彼に見限られた悲しみがぐっと胸にこみあげて、涙が溢れた。
捨てられた子犬も、こんなふうな絶望感を味わったのだろうか。
彼が寂しい目をするわけを、もっと早くに聞いておけば良かった。
彼が自分の命を軽んじるわけを、問いただしておけば良かった。
そうしていたら、今頃自分は彼を信じてここに来ることは無かっただろうか。
でも違う。
きっと自分はそれでも、彼を受け入れていた。
ありのままの彼を。
たとえ、彼の中に「何もなかった」としても。
いいよ。
ボスに殺されるなら。
ぱららららっ、と聞き慣れない、冷たい音がして、充は自分の体に何発も熱い鉛の玉が食い込むのを
感じた。
ボスが好きだから。ボスがそうしたいって思ったことなら。
喉が、胸が、腹が、焼け付くように熱くて、充は咳き込んだ。
馴染みの鉄の味が、口腔いっぱいに広がった。
ああ、俺は死ぬんだな。思ったよりもずっと早く、簡単に。
「命というのは、簡単に壊れるものだな」
彼がどこか悲しげにそう言った事を、ふと思い出した。
そうだね、ボス。
俺だって…こんなに簡単に。
「ボスが死ぬんだったら、俺が死んだ方がよっぽどましだよ!」
思い出した。
あの時、充は生きていることを悲観しているかのような彼に向かって、
そう言ったのだ。
今でも覚えている。
彼の綺麗な顔。
その後与えられた、温かい抱擁も。
何で俺、あんな無責任なこと言ったんだろう。
ボスは、俺の言葉を信じただけなんだ。
ボス。
本当は。
ボスと二人で生きて、一緒にいられるのが一番いいよ。
でも、仕方ないよな。
このゲームに乗ったら、俺かボスか、どちらかは必ず死ぬってことだろ。
好きな人に殺される方が、好きな人を殺すよりずっと楽だ。
だから、これで、いいんだよな。
急に脱力感が身体を支配した。
ーでもさ、ボス。
唇が、妙に冷たくなった気がした。
寒くて。
とても、とても寒くて。
少しくらいでいいから。
辛いって、思ってくれないかな?
身体が、笹川たちと同じように、砂浜に叩きつけられて、舞い上がった砂が目に入った。
視界が曇っても、もう目を拭う力は残っていなかった。
…ボス。
涙で歪んだ視線の先に、大好きな人は居なかった。
じりじりと痛む傷のあたりに、何かが触れたような感じがした。
そこで、充の意識は途絶えた。
「…お前の望むとおりにしたよ、充。」
桐山は呟いた。
彼の白い指は、充の傷口から溢れた血で、赤黒く汚れていた。
弾丸が入った後の人間−充の身体を調べた。
なんの感情も伴わぬ、ただの「検分」であるはずの行為。
しかし桐山は、もはや生命活動を停止した彼に向かい、まるで語りかける様に続けた。
「俺が死ぬところを見なければ…お前が言うような、辛い気持ちになることはないんだろう」
ー俺には、やはりよくわからないが。
桐山はこめかみにそっと手を添えた。
ー俺が生きていれば、それでいいのか?
月が輝いていた。
充がこの月を生きて見ていたのなら、きっと綺麗と言って笑うのだろう、そんな
とりとめもないことを考えた後、桐山は見開かれた充の目を、丁寧に閉じた。
彼の目はもう月を映すことはないのだから。
充の亡骸を残し、桐山は砂浜を後にした。
彼のこめかみが疼くことは、それから二度となかった。
おわり
プログラム中の桐沼。初書き。
シリアスでも、両想いというコンセプト。
桐山が充を殺した理由を色々考えていたら、こんな内容になりました。