(てのひら)


「ボス。頼む。今夜俺のうち来て…」
いつもより乱暴に酒をあおった充は、とろんとした目で俺を見詰めてそう言った。
既に酔い潰れた笹川と黒長を連れ、少しも酒気を感じさせぬまま、家の手伝いがあるからと彰が
いそいそとこの部屋を後にして間もなくの事。
午前零時五十五分。ー足元の覚束ない充と共に、俺は「アジト」を発った。



「忘年会」と称して、桐山ファミリーのメンバーたちは月岡の差し入れの酒類、それにコンビニエンスストアで購入したつまみや惣菜を各自持ち寄って、ささやかな宴会を開いた。
こう言う場が御互いに一番落ち着ける。中学生と言う年齢には不相応かもしれないが、一年の締めくくりを、気の許せる喧嘩仲間五人で迎える。…こういう事を、来年も出来るかどうかは定かではないけれど。

五人のメンバーが一同に会するのも実に一ヶ月振りだ。それと言うのも、年末にかけて桐山が家の行事に追われたために、学校にすらろくに顔を出せぬほどの有様だったからだ。
四人は相変わらず、共に喧嘩に明け暮れたり、遊びに行ったり、たまには学生の本分を思い出して期末テストの勉強会を開いてみたりと、それなりに過ごしていたのだが。

「桐山くん、相変わらず強いわねえ」
「酒には慣れている」
まるで水でも飲んでいるかのように次々とグラスを空ける桐山に、うっとりとした様子で月岡が酌をする。
既にあらぬほうを見詰め、「俺だってたまには寂しくて仕方ない時が…」人が変わったように語り始める笹川と、一杯で顔を真っ赤に染めて
ぼんやりとしている黒長。酒が入る時はお馴染みの光景である。

ただ違ったのはー。
「充。…どうした」
桐山はいつになく静かな様子の充におっとりとした調子で声をかけた。
「…なんでもない」
ぶっきらぼうな返答があった。充は先ほどから黙って、一人で酒を飲み続けている。笹川が絡んでも、無視していた。
桐山はそんな充を、不思議そうに見詰めた。
…いつもの充と違う。

「充ちゃん、寂しかったみたいよ。最近桐山くんあんまり会ってあげてなかったでしょう」
背後から、月岡が気遣った風に桐山に言った。
「…そうなのか?」
よく分からなかったがー充があんなふうになったのには、自分に責任があるのだろうか。
桐山は少し、気難しげに眉を寄せた。会えない間に、一体何があったのだろう。

「楽しく飲みたいけど、いつもそうは行かないわよねえ。充ちゃんにも悲しいこととかあるのよね」
月岡が、まるで人生相談を受けているかのような調子で言い、また酒をあおった。

ー悲しい?
充。どうして充は悲しいんだ。

充は酔っていた。自分の限界を知っている充は、必要以上に飲むことなどしないはずなのに。

「充。…それくらいにしておけ」
桐山は充のほうににじり寄って、新しく酒を注ごうとしているその手を止めた。自分の判断したところ、充は決して酒に強い体質ではない。過度の飲酒は、身体への負担が大きすぎる。

「…どうでもいいだろ」
いつもなら考えられない口調だった。
充は潤んだ目で、桐山を見詰めて言った。
「どうせ、ボスは俺のことなんてどうでもいいって思ってるんだろ…だから、俺のことなんてほっといてよ」
責めるような口調だった。そんなことを充に言われたのは初めてだった。
僅かに動揺を覚えつつも、桐山はあくまで淡々と答える。
「そんなことは言っていない」
充はまだ不満そうであった。
…ここで何か言うべきなのだろうか、桐山は首を傾げた。
充の手を掴んだ手に、少しだけ力を篭める。
充は暫く黙って、そんな桐山を見詰めていたが、やがて掠れたような声で言った。
「じゃあさ、今日俺んち来て、ボス」
桐山の服の裾を、そっと掴んで。
「俺のこと、どうでもいいって思ってないんだったら」

いつだったか。どこかで見た。
捨てられた子犬の様な瞳だった。

「…それで気が済むのかい?」
充の手を軽く握り返してやると、無言で充は頷いた。





「じゃあ、桐山くん。充ちゃんのことはお願いねv」
月岡は意味深にそう言い、片目を閉じて見せた。
充との関係の事を打ち明けたつもりはなかったが、薄々感づかれているような節がある。
特に問題はないのだろうけれど。

「充。…行くよ」
足元の覚束ない充は、桐山の腕を借りてやっと歩けるほどの有様であった。
桐山に依存することを避けようとする普段の充からは考えられない。
だが。…悪くはない。

アジトからの道筋は月明かりに照らされ、少しだけぼんやりとしているように見えた。
やはり自分も酔いが回っていたのか。…そんなのは気分になるのは、いったいいつ以来だろう。
充は終始無言のままだった。

酒に依存するときの人間の気持ちというのはどのようなものなのだろう、ふとそう考えた。
何かを忘れたがっている。…多分きっと、「悲しい気持ち」を起させる何か。



久々に訪れた充の家は、以前来たときとはすっかり様子が変わっていた。

積み上げられた食器の山。まるで荒らされた後の様に。
服も小物も散乱し放題だった。
桐山の腕から離れた充は、ぐったりとその場に座り込んだ。
足元にも、数日前の日付の新聞が拡げっぱなしになっていた。
桐山は無表情で、そんな部屋の様子をいくらか眺めた後、静かな声で言った。
「…少し、片付ける必要があるな。」
「いいよ、そんなの、ほっといて」
「そういうわけにもいかないんじゃないか」
「いいんだよ!」
充が怒鳴った。桐山は僅かに目を丸くした。
充がこんなに桐山に対して声を荒げる事は稀だ。
酒が入っている所為もあるのだろうが。
「…そうか」
充が拒むのならば、片づけを強制する理由もない。
散らばったものに手をつけるのはやめておいた。片付けるのは、
充の酒気が冷めてからでも遅くは無い。
僅かな隙間を見つけ、桐山も座った。
充は相変わらず焦点の定まらないーしかし、どこか潤んだような目で桐山を見詰めて来た。
「…どうした」
「ボス…怒ってる?」
「何故だ」
「不安そうな」顔だった。
くしゃくしゃに乱れた充の髪を撫でてやる。普段なら手入れを怠らない筈の髪。
前回カラーリングに行ったのはいつなのだろう。少し、生え際が目立つ。いくらか指通りも悪い。
こうして頭を撫でられるのは、充にとって気分の良いことらしい。いくらか表情が緩んだ。

改めて部屋の中を見渡す。人の気配はなかった。誰もいないのか。
「充、母親はどうしたんだ」
この家庭環境は正常とは言いかねる。こんな環境に子供を放置しているのは、少しおかしい。
「知らない」
撫ぜられて、少し落ち着いていた充が再び表情を強張らせた。
まるで人が変わったようだった。幼児退行化現象。充は頑なに自分の殻に閉じこもろうとする。
これが他の誰かであればさして気に留める事も無く放っておいて差し支えないのだが、相手は充だ。
けっして捨て置けない何かを覚える。
どうして充の母親は、こんな充を放置して姿を消したのだろう。いつも自分が来た時は、父親はともかく、母親はいる様子であった。
一度も出迎えられたことはないし、充に紹介されたこともなかったけれど。
一般的に、母親は、自分の子供のことを最優先事項とするものだと聞いた。
桐山には生まれてこの方「母」と呼べる存在が居た事がないから、客観的に理解することしかできなかったけれど、
少なくともそう認識していたのだ。
充は触れられたくないようであった。
桐山は質問を投げかける事を諦めた。
荷物を隅に寄せて、漸く二人が並んで座る事のできる空間を作る。
こういうとき、どんな言葉を発すればいいのかよくわからなかった。
だから、自分に出来ることをしようと思った。
「充。…少し、休んだ方がいい」
「じゃあ、こうさせて…」
声は下から聞こえた。
なんだかむず痒いような、くすぐったい様な感覚が膝の上に生じた。
程よい重み。充はどうやら、自分に膝枕をさせるつもりらしい。
「ああ、構わないよ」
了承する証に頷くと、充はやっと安堵の表情を浮かべた。

ここのところ、充はひどく気張っているように見えた。
巧妙に隠しているつもりなのだろうが、何となく違和感は感じていた。
それは単なる錯覚ではなかった事をここに来て確信する。
もっとも、学校に12月に入ってから来たのは数回、しかもテスト期間中だけであったから、ごく僅かな時間しか
彼を見ることは出来なかったのだけれど。

どうして、自分の前で無理をしていたのか。桐山には良く理解出来なかった。
ただ、緊張の糸が切れた、その後に残るのは果てしなく深い疲労だけのようだった。
充はすやすやと寝息を立てていた。
その髪をそっと撫ぜる。充が眉根を寄せ、どこか苦しげな表情をその顔に刻んだ。
起こしてしまったかと思ったが、そうではなかったらしい。いくらか身じろいだ後、充はひどく弱々しい声でうわごとの様に呟いた。
「おいてかないで…」

一体どんな夢を見ているのか。
正確な判断を下す事は出来なかったが、だいたい、予想はつく。
「………」
少なくとも、そんな心配を俺に対して抱く必要はない、充が起きたら、そう言ってやろうかと思った。
色褪せたパーマの髪に、そっと指を通す。
充を置いて、自分が行く先に一体何があるのか。
それを考えようとするといつも思考は暗礁に乗り上げ、停止する。結局のところ、自分は充の導きを必要としているのだろう。
不思議な温かさを膝に乗せたまま、桐山もまたまどろみ始めた。
心地良い睡眠をもたらしてくれるのもまた、こうして自分に身を任せているあどけない少年の存在であると。
不自由な脳の機能は、それでも確かにそう認識していた。





「ボス!ごめん俺調子乗っちまって…」
目覚めた時には、もう充はいつもの「充」に戻っていた。
みっともねえとこ見せちゃったな、決まり悪そうな顔で、散乱した衣服をたたみ始める。すっかり手馴れた様子で。
手伝う必要もないようだった。混沌としていた部屋が、いつもの秩序を取り戻すのには数分とかからなかった。
桐山は、座っているだけだ。いつも通り、何もすることはない。
もっとも今回は、充が仮に自分の手伝いを望んだとしても遠慮させてもらったかも知れない。
充を乗せていた膝がじりじりと痛みを訴えていた。動かす事は容易ではない。
長い間同じ姿勢を保ったまま睡眠を取った所為だ。きちんと長い足を折り畳んで、行儀良く座る桐山の表情からは、
そんな様子は微塵も窺えないのだが。
「朝ごはん、何がいい」
「…任せる」
「わかった」
充は軽く微笑んで頷き、台所に向かう。まるで専業主婦のようだ。
これに屋敷で働くメイド達が身につけているようなエプロン(厳かな桐山家の雰囲気に合わぬ、それはそれは可愛らしいデザインの)
を加えれば、完璧だ。桐山和雄は至って真面目に、至って無粋な想像に思考をめぐらせた。
そんな時にも彼の表情は相変わらず鉄仮面であるのだけれど。
それとも知らぬ充の方はといえば、鼻歌でも歌い出しかねないほどのご機嫌さで、桐山と自分の朝食を作っていた。
どうやらすっかり気分は晴れたようだ。それに桐山は安堵感を覚えた。
それと同時に、おかしな思考が桐山の中に生じてくる。

脳の中で、月岡があの少しごつい顔を緩ませて、ウィンクする光景がゆっくりと再生された。
桐山くん、新婚家庭ではね、妻が夫にあーん、ってしてあげるのよv
あーん?
月岡は丁寧に身振りまでつけて教えてくれた。特に試す機会もないと思い(桐山はまだ自分が家庭を持ち、そこに妻が待っている図と
言うものを想像する事が出来なかったのだ)、記憶の底に沈ませていたのが、唐突に今蘇って来た。

料理が並べられ、食欲をそそる匂いが満ちる。充がその中のひとつに箸をつけたのに、桐山は声をかけた。
「…充」
「え?」
「それを俺にくれないか」
「え、だってボスんとこにも同じの…」
「それが食べたいんだ」
桐山は言い出したらなかなか聞かない。
こういうところは、お坊ちゃん育ちのせいか、どうしても譲ろうとしない。
充は諦めたように頷き、箸で掴んだ卵焼きを桐山の皿に持っていこうとする。
しかし桐山はそれを制した。
「充、そうじゃない」
形の良い唇を、程よい大きさに開く。研ぎ澄まされた桐山の美貌も、この表情でどこか滑稽なものに映ってしまう。
「…ボス…」
充は何とも情け無いものを見てしまった、という風に力の抜けた表情を浮かべたが、
桐山の押しに負けて、箸を桐山の口元へ持っていった。充の卵焼きは桐山に奪われてしまった。


静かな食卓だった。
二人きりで黙々と朝食を食べる。…月岡の言う新婚家庭とは、こういうものなのだろう。
充の料理の腕は申し分ない。それは、何度も味わった自分が理解していること。
屋敷のシェフは、確か、以前は三ツ星レストランに勤めていたと言うが、充の料理の味を知ってからは、何となく、もの
足りないものを感じるようになってしまった。…どうしてか。
充の顔を眺める。目が合うと、嬉しそうに微笑む。いつもの充。一緒に居て、悪くないと感じる充。
傍に居れば、充はいつもこの顔で自分を見てくれるのだろうか。ずっと充の傍に居れば。

ふと、思った。
こうして充と二人きりで暮らすのも悪くない事なのではないかと。
温かいベッド。美味い食事。…そして何より、充。
冷たい家に帰っては―何も揃っていない。
「冷たい」と意識する様になったのも、充を「温かい」と認識するようになってからだ。
桐山は、特にいつもと変わらぬ声で、言った。
「充。ここに居ては駄目か」

充は目を丸くした。
「…俺は、帰らないで、ずっとここに居るのも悪くないと思う。…賛成してくれるか?」

桐山は身を乗り出し、充の方に擦り寄るようにした。
ー充は温かい。だから、充とずっとこうしていたい。
「…ボス」
充は困ったように顔を紅くして、そんな桐山を見詰めていたが、やがて諭すように、言った。
「…駄目だよ、ボス。ボスは家に帰ったほうがいい」
「…何故だ」
桐山は僅かに形の良い眉を持ち上げた。こめかみに鈍く疼きが走る。
自分の言うことならば、ほとんど受け入れてくれる充がー自分を拒んだ。
はっきりと表すことはなかったにせよ、桐山は心の隅に衝撃を受けていた。
桐山の様子が少しおかしくなったのに気づいてだろう、充は桐山を宥めるかのように、優しい声で言った。
「だってボスの家、心配するだろ…俺だって、ずっといて欲しいけど」
その話題を出されると、口ごもってしまう。

あの人たちは、「俺」の心配なんてしないよ。

何故か、充には話したくなかった。自分がどう言う家庭で暮らしているのか。
充が隠すのとはまた違っているとも思うのだが、どうだろう。
ただ言える事は―充とこうしてここに居る方がはるかに居心地が良いと言う事。
桐山自身―そう認識する事は出来なかったとしても、充の事を特別に思っている事は明らかであった。
「俺、ボスが怒られるのやだよ。またここにはいつでも来れるだろ」
そう説得されると、そういうものか、と思う。

「お前の言う事は、良くわからないな」
傍に居ろ、と言っては抱きつく。
ここに居ると伝えれば、ここに居ては駄目だと言う。
桐山はくしゃりと充の乱れた髪を撫ぜた。
「俺には…ボスが良くわかんねえよ」
充は桐山の胸に顔を埋め、シャツの裾をぎゅっと掴んだ。
「…そうか」
充の頭を撫でながら、一言。桐山は呟いて、それからこめかみを押さえた。
−良くわからない。
充のことが。
俺には良くわからない。
「…他人を理解するというのは、難しいことだな」
「俺がボスで、ボスが俺だったら…わかるのかもしれないけどな」
また充は良くわからない言葉を吐く。
「どういうことなのかな。それは」
桐山は目を丸くした。充は小さな声で続けた。
「俺、ボスになりたい。そしたら、ボスのことわかるのに」
こめかみがつきりと強めに疼いた。
「…充」
充はそれ以上は何も言わなかった。
自分にしがみつくようにして黙っている充の頭を、桐山はそっと撫でた。
抱きしめた。
…充。

俺は、充になりたいよ。




おわり




忘年会?ネタ。
本当はクリスマスが書きたかったんですけど、何となくこっちに。
ミスチルの「掌」がBGMでした。
桐山と充は、想い合っているのに御互いにすれ違ってしまっている。
そんな感じを出したくて書いた桐沼でした。
充の家庭の事情、よくわからなくてすみません。
結局、二人とも頼りあっているってことが言いたかったような。
いつもヅキが出張るのが不思議です(笑。

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